歌舞伎の歴史<前編>

出雲阿国

歌舞伎は、出雲阿国(いずものおくに)が京都四条河原で、
歌舞伎踊りを踊ったのが始まり、と言うのは有名なお話で、
皆様ご存じかと存じます。
京都南座の斜向かい、四条大橋のたもとには、
南座をふり仰ぐようにして、出雲阿国像が建っており、
また南座には、「阿国歌舞伎発祥の地」として、石碑も建っております。

それでは、この出雲阿国が披露した『歌舞伎おどり』とは、
どのようなものだったのでしょう?
そして、現在の歌舞伎の形になるまでに、どのような変遷を辿ってきたのか、
順を追って紐解いていきましょう。

歌舞伎踊り

慶長8年(1603年)5月6日
宮中女院御所にて「かふきをとり」が出雲国の人々によって披露された。
というのが、歴史で初めて歌舞伎が登場する記載です。(慶長日件録)

当時は、「ややこ踊り」と称されていたようですが、ややこ踊りとは、
少女達の小唄踊りのことで、出雲阿国が披露していたものは、
もう少し淫らな踊りだったようです。

能管(笛)・小鼓・大鼓・太鼓という、
能と同じ四拍子(しびょうし:4種類の楽器のこと)に合わせて、
異風な男(男装した女性)が、茶屋の女と戯れる場面を描いた舞踊でした。

これが評判を呼び、次に「遊女歌舞伎」なるものが出現します。

遊女歌舞伎

出雲阿国の歌舞伎おどりの評判に目をつけた、大資本の遊女屋が、
抱えの遊女をアピールするために始めたのが『遊女歌舞伎』です。

最大の特徴は、楽器に初めて三味線を用いたことでした。
従来の演奏家による、四拍子(しびょうし)に加え、
遊女たちが三味線を演奏し、舞を披露したのです。

この遊女歌舞伎は、大ヒットを博し全国に広まりますが、
扇情的な踊りが風紀を乱すとして、幕府による取り締まりが強まり、
10年後、京都六条三筋町の遊女屋が、店ごと島原に移される事態となり、
外出も制限され、自然と消滅していったとのことです。

若衆歌舞伎

続いて登場したのが、元服前の前髪の少年たち(15歳以下)を中心とした
『若衆歌舞伎』です。

四拍子(しびょうし)の鳴り物に合わせ、少年たちが三味線を弾き、
獅子舞や軽業、狂言などを披露したと言われています。

まだ前髪の残る美少年たちの独特の色香は、衆道(しゅどう:男色)の
対象となったため、風紀を乱すとして禁令が下りました。
(1652年〜1655年)

そこで、舞踊本位の内容から、演劇的なセリフ劇へと変化し、
『野郎歌舞伎』へと進化していきます。

野郎歌舞伎

能狂言の筋立てや、小舞などを取り入れた『野郎歌舞伎』は、
若衆を中心として演じられ、女方が初めて登場します。

また、古浄瑠璃(義太夫節が成立する以前の浄瑠璃)の影響を受け、
内容にも深刻さを増しました。

興行制度が整い始めるのもこの頃で、顔見世興行が行われ、
顔見世番付が出版されました。

それまで、遊女や少年が演奏していた小唄や三味線も、
専門の演奏家が担うようになり、現在の歌舞伎への片鱗が見え始めるのが
この頃となります。

歌舞伎の花が開く

出雲阿国に始まる歌舞伎おどりから、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎と続き、
風紀を乱すとお咎めの受けながら、形を変え進化し続けてきた歌舞伎が、
ついに花を咲かせる時がやってきます。

女方が生まれ、筋に深みが増し、
三味線を加えた音楽も専門家が担うようになった野郎歌舞伎。

その野郎歌舞伎が礎となり、ついに江戸の華『元禄歌舞伎』の幕が開きます。

元禄歌舞伎

元禄時代を中心とする(貞享・元禄・宝永の)約50年間、
歌舞伎は飛躍的に発展しました。

江戸、上方それぞれに独自の様式が生まれ、
江戸では、初代市川團十郎が創始した荒事が人気を博し、
上方では、初代坂田藤十郎により、和事と呼ばれる台詞劇が発展していきます。

この様式の違いは、江戸上方、それぞれの土地柄、文化の違いによって
生まれたと言われています。
当時、江戸には全国から職人が集まり、男女比は2:1程でした。
気性の荒い職人には、團十郎が演じる超人的な力を持つヒーローが好まれ、
まだ標準語のような統一言語を持っていたなかった江戸の市民には、
視覚的に楽しめる荒事が受け入れられたのかもしれません。

対して、歴史の長い上方には確固たる共通言語がありました。
その柔らかな表現を生かした、人情味に溢れる台詞劇が発展していったものと
思われます。

更に、それまで俳優が兼ねていた脚本も、近松門左衛門などの、
専門の狂言作者が誕生し、演劇的な発展も遂げました。

近松門左衛門

ここで、近松門左衛門について、簡単にご説明いたします。
名前をお聞きになったことのある方も多いと思いますが、
天和3年(1683年)以降に活躍した浄瑠璃・歌舞伎作者です。

生まれは武士の家柄でしたが、青年期には公家に仕え、知識や教養を得ました。
京都四条で一座を立ち上げていた、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾(かがのじょう)
と知己を得て、現在お正月には定番の曽我物の原点である
『世継曾我』(よつぎそが)を、天和3年(1683年)に発表し、
翌年、竹本座でもかけられ評判を呼びます。

歌舞伎作者に転向してからは、初代坂田藤十郎とタッグを組み、
藤十郎の得意とする濡れ事、口説事を生かした、郭の中の恋愛模様を描いた
傾城買い狂言を確立します。
その後、再び浄瑠璃作者に戻り、数々の名作を生み出しました。

近松門左衛門の作品は、現在でもしばしば上演されるものが多く、
代表的なものに、『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)
『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)『平家女護島』(へいけにょごがしま)
『心中天網島』(しんじゅうてんのあみしま)
『女殺油地獄』(おんなごろしあぶらのじごく)
などがあり、時代を超え、今でも人々に愛され続けています。

終わりに

ここまでで、歌舞伎の歴史<前編>をお送りしてきました。

420年の歴史を誇る歌舞伎ですから、時代と共に様々な変化を遂げてきました。
時には幕府の取り締まりに合い、時には芝居小屋ごと僻地へ追いやられ。
それでも、座元や狂言作者はへこたれず、なんとかお咎めを受けない形で
興業を続けてきました。

時代によって、好まれる演目も目まぐるしく変わり、その度に、歌舞伎役者も
工夫を凝らし、人気演目を生み出し続けてきたのです。

現在でもそれは変わらず、世界的な疫病に戦々恐々としていた時期も、
歌舞伎座の幕は開き続け、その心意気に共感する人々で客席は埋まりました。

次回は、歌舞伎の歴史<後編>をお送りします。
江戸歌舞伎の更なる発展と、
幕府が倒れ、明治政府と共に興る、演劇改良論の波。
歌舞伎は存続できるのか?

どうぞお楽しみになさってください。

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Posted by yumiko